「幸福」になるためには死ななければならない

人は幸せになりたいと思う生き物である。それは幸せとは真逆の、不幸を知っているからであり、不幸を知らなければ幸せを知ることも無い。

ここ最近人々の情報が共有される時代になってからというもの、人の生き方についてもほとんどまとまってきたかのように思われる。その中の一つに「人は幸せになる為に生きている。」という答えもあったりする。

私はこの答えについてとやかく言うつもりは無いのだが。しかし、幸福を目指す為には死んでしまった方が手っ取り早いということを、世の中の99.9%の人は知らない。

死とは生きることの真逆のことである。死に対して恐怖を抱くことは別におかしくもなんともないことなのだが、死を遠ざけている以上は一生幸せになることは無いということくらいは知っておいて損はないだろう。

では生きている人は皆不幸なのか?もちろんそのようなことはない。人の人生というのは、実に多様な考えや生き方があり、生きている中でも大きな幸せがあったりほんのささいな幸せというものがあったりする。

ここで大事なのはどれが自分にとっての幸せであるのかと認識する一つの目を持つことではないだろうか?

世間一般的に、結婚して子どもを育て、お金持ちになり人生の終わりには家族みんなに見守られてこの世を去ることは一種の幸せの一つであるかと思われる。しかしそのことが自分にとって、初めから家族もお金も友だちも恋人も持っていなかったとしたら、別にそれらのことに対して幸せとも何とも思わないのではないだろうか?むしろ人によっては有害な、自らの幸せを脅かす不幸そのものであったりもする。

また、自らが幸福になったらそれで全て万事解決するということは無いということも当然のことながら存在している。

自分が幸せになるということは、誰かがそのしわ寄せに不幸になるということであり、そのことを全く認識せずに幸せになりたいなどとぬかすのは一種のテロ犯罪者に近い思考かと思われる。

自らの人生を諦めて幕を閉じる。これも一つの幸福である。しかし、その幸福の背景には悲しみを背負って生きていかねばならない人がいるかもしれないということを知った上で実行しなければならない。

人間の幸福には、他人の不幸も絡んでくることがほとんどである。自身を殺して他人が笑顔になればそれで良いのだが、自身を生かして他人を幸せにするというのは、果たして行えるものなのだろうか?

そもそも自分で自分を殺すにしても、殺し切れるかどうかというのも怪しい話である。自分では自分を殺したつもりでも、怨念か祟りか、恨みとなってその相手を道連れにしようと引き込んでしまうかもしれない。そんな非科学めいた話でなくても、自分もやりたいことがありその結果反動で他人を殺してしまうということだって十分にあり得るだろう。

人の魂というものは倫理だとか道徳などで縛れるものではないので、殺すにしてもどのように流して行けるかの考えに向けた方が、一見遠回りかもしれないが案外の近道かのように思われる。

もっとも、私から言わせてもらうと人生の目標を「幸福」というたった一つのことだけに絞らせてしまうのも病気並みの大問題であるかと思うのだが。例えば友人に誘われて初めてテニスをやってみた時、そのことがとても面白く楽しみがいのあるものだと感じたら、強くなる為に必要な努力もやり甲斐のある、それこそ誰から言われなくとも自ら率先して辛い練習に打ち込むのではないだろうか?

幸せの形とは、一見そのことが幸せであるとはなかなか気づきにくいものである。もしかすると幸せではなく、不幸そのものに見えることがあるかもしれない。だったら自分が今幸せかどうかなんてことを考えているよりかは、時には一心になって物事に夢中になって動いてみるのもまた人の人生を豊かにしてくれるだろう。

人の幸せとは、たまにふと思い返すからこそ良い味が染み出してくるのである。そしてその思い返すタイミングというのは、自分が死ぬ一歩手前となった、その瞬間だけで良いのだ。

このことは肉体的な話ではなく、精神的な話にも言えることを、ここに申し添えておくとしよう。